衆議院予算委員会(1995年1月26日)

衆議院議員に初当選させて頂いて1年半後、阪神・淡路大震災が発生。
直後に自宅を飛び出してから、ずっと自宅に戻らずに被災地の中を駆けずり回っていました。そして、その時の着の身着のままの姿で上京し、予算委員会の質問となりました。
当日、あまりに他人事な総理以下閣僚とやり取りしているうちに、これでは犠牲になられた方々が浮かばれないと思い、つい自然に口から発せられたのが「天災じゃない!人災だ!」でした。それは、被災者すべての方々の熱き思いを訴えさせて頂いたものと思っています。

赤羽委員 神戸市選出の新進党赤羽一嘉でございます。
質問に先立ちまして、このたびの阪神大震災におかれまして、たつとき命をなくされた五千有余名の遺族の方々に心からお悔やみ申し上げるものでございます。また、現在も不自由な生活を余儀なくされている、三十万とも言われるし、それ以上とも言われている被災者の方々に心からお見舞いを申し上げるものでございます。
また、実は私自身も当日、神戸市東灘区の住宅で家族四人ともども被災に遭いました。被災者の代表ということよりも被災者の一員として、今回の震災におかれまして国内各地の皆様、そして海外の皆様から送っていただきました本当に真心からの御支援に対して、この場をおかりいたしまして心から御礼を申し上げるものでございます。本当にありがとうございました。
それでは、限られた時間でございますので、質問をさせていただきます。
まず、私、今言いましたように、今回最も被害が大きかった地域の一つの東灘区の浜辺の方に件んでおる関係で、そこで被災を受けたわけでございます。その中で一週間、一回も着がえもせずに、ボランティアの皆様と一生懸命救済に働かせていただきました。
その中で、正直言って、本会議の結果も聞いておりますし、きょうの一日の予算の質疑も聞いておりますが、何となく現場の声とここでの話がかみ合ってないなと思わざるを得ないのでございます。何か総理を責めるとか責任問題を問うというようなことは非常に心苦しいことであります。ただし、現場を回っていると、本当に被災された方、家族を亡くされた方、家を壊された方、この方たちの声というのはもっと厳しいのです。政府は何もやってくれなかったじゃないか、おまえ何やったんだと。私は地元でもありますから顔もわかっております。一生懸命やらせていただきますと言いますけれども、本当に厳しいのです。
その厳しさに対して、政府は精いっぱいやられている、最善を尽くされていると言われましたけれども、朝七時半に知って十時に第一初動した、この二時間半、地震のときの最初の二時間半、ここに決定的な、天災で終わらせるのか人災につなげるのか、決定的なこの二時間半に対して何の反省もない限り、これから総理、そして閣僚の皆さんがいかに一生懸命復興します、全力で尽くしますなんて言っても通りません。被災民の人たちには通らないのですよ。
そういう意味で、今回の教訓を生かして今後の対策という話、これは最も重要なことだと思いますが、被災者の方たちの現場では、十日もたってまだこんな生活させているのか、家もつぶれた、職もない、どうしたらいいんだ、もっと早く手を打ってくれ、こういった生の声を今回、総理初め閣僚の皆様方に伝えさせていただくのが私の使命だと思って、限られた時間でありますけれども、伝えさせていただきます。
また、地震状況ですけれども、簡単に言いますけれども、私が経験したことを言います。
五時四十五分、ドーンとトラックか何かに家がぶつかったのかなと思うぐらいはね上げて、それで目を覚ましました。それから、いきなりジェットコースターの一番厳しいところにほうり出されたような感じで、ガッガッガッガッガッと物すごい、ただし十五秒か二十秒ぐらいだったと思います。私は、三歳の娘を抑さえて布団にかじりついて、それだけが精いっぱいでした。もう本当に、ぐらっときたら火の元をなんというあの標語がいかに役立たないことかを実感しました。
余震が来る前に何とかドアをあけなければいけないということで、もう真っ暗な中だったんですけれども、精いっぱい玄関に行きました。もう何かいろいろなものが散在していて足が血だらけになりましたけれども、ドアをあけて懐中電灯を照らしてみると、部屋の家財道具が全部倒れたんじゃなくて飛んでいるのです。倒れたんじゃなくて、あの大きなテレビが考えられないところにある。マンションの重いふすまが部屋じゅう、四つあるんですけれども全部ほうり出されている。たんすの中身が全部出ている。たった十五秒、二十秒の間に、こんなに大きな地震だったのか。慌てて家族の靴を持って、靴を履かせ、玄関で毛布にくるませて、ドアをあけて、寒かったのですけれども、外が明るくなるのを待ちました。
約一時間、七時過ぎに明るくなりました。外を見ると、木造の二階建てがもうことごとくぺしゃんこにつぶれているのです。これはまずいと、家族は置いておいて、もう外へ出て着のみ着のままで走り回りました。
私の知っている一人住まいの御婦人がいて、あそこは文化住宅というんですけれども、二階建てのアパート、これは絶対厳しい。行ってみると二階がべちゃっとつぶれて、こういう感じでかしいでいました。そこに二人の若夫婦が立っていました。一番奥の部屋にうちの母親が住んでいるのです、ただ玄関が全部つぶれていますのでとても行けない。私の知っている人は一番手前の部屋でした。幸いガラス窓が割れていましたので、自分でぶち割ってその中へ入って、たんすの下で挟まれていましたのでたんすを持ち上げました。力には自信があったのですけれども、屋根が落ちてきているので屋根ごと持ち上げなければいけないので、本当になかなか上がらない。そんな中で、しかし、その人は助け出せました。
そのあたりぐるぐるぐるぐる回ったのです。今挟まれているのです、主人が挟まれているのです、一一〇番してください、一一九番してくださいと狂ったように言われる人もいました。行ってみる、足が出ている、だけれども家が上がらないのです。人手がない。で、こう上げて、出し切れなくてガチャンといったときに助かる可能性を全く失わせてしまうということに、これはもうとてもできない。もっと人手があれば、もっと機材があれば、ジャッキがあれば、もっと大がかりなあれがあれば助けることもできただろうが、残念ながら、そうやって人の足の色がだんだん白くなり、声も聞こえなくなる、そういった状況を何人も見ました。
本当に朝七時過ぎから夕方三時ぐらいまで外を駆けずり回りました。電話もかからない。サイレンの音だけ鳴っているけれども人も全然来ない。自衛隊の姿なんか、想像もしてませんでしたけれども、あらわれない。ああ、もっと自分に力があったら、もっと本当に人手があったら、本当に情けない思いをいたしたのです。
先ほどお話を聞いておりました。朝一報を聞いてニュースを見ている、相当甚大な被害だなと言われておりましたけれども、総理、一体どのくらい被害規模を想定していたのでしょうか。ニュースによりますと、お昼、二百名程度の死亡が出たということで、えっと驚かれたという記事も読みましたが、一体どのように初動動作の段階で認識されていたのか、お聞かせいただきたいと思います。
村山内閣総理大臣 今委員から、現場で経験をされた生々しい実情の御報告がありましたけれども、そういうお気持ちに、遭遇された皆さんのお気持ちに、本当にもう言葉では言い尽くせない気持ちでいっぱいでありますけれども、率直に申し上げまして、私は六時過ぎのニュースをテレビで見たんです。そのときに、これほど大きくなるとは、その瞬間は率直に申し上げまして想像できませんでした。七時半に秘書官から連絡があったときに、かなり広い範囲に相当の被害が出る可能性があります、こういうことはそのときに聞きました。
赤羽委員 どういう報道がされていたか、現場にいたわけですから逆にわからなかったわけですが、あの四十三号線の高速の橋げたが倒れている状況を見れば、大変な被害があったものだというふうな御認識をいただけたらなと本当につくづく思います。
またちょっと先を急ぎます。
そして日暮れ前に自転車に乗りながら家族三人、五歳と三歳の子供を避難所に連れていきまして、その足で三宮の市役所、そして県本部に向かいました。
そんな中で、交通渋滞がすごい。さっき冬柴議員からもお話がありました。自転車で一時間半かかってようやくたどり着きました。その中で、本当に交通渋滞だから、大阪や北兵庫からバイク隊で救援物資を持ってきて、五十人、百人と来てくれたボランティアの方たちもいたんです。また、大阪からいわゆる砂利船に救援物資を満載して、荷おろし用に三十人、青年が乗ってきました。神戸の第三突堤、夜中の二時ぐらい、私も一緒に立ち会って荷物をおろしました。
そんな中でも、私の知り合いの中には、被災者で、お父さんがつぶされて生き埋めになっているんだけれども出せない、お姉さんとお母さんだけ助かったからまず姫路に連れていって、その人はトラックの運転ができる、トラックを運転して救援物資を野宿している人に配ってやる。それで、結局お父さんは亡くなられ、昨日だびに付して姫路に帰ったそうです。
そういった、はっきり言って政府が手をこまねいて、ああだこうだ言っている。わかりませんけれども、現場にいた中で、民間ボランティアの方、本当に精いっぱい努力されていたということをまず認識してほしいのです。
一方、行政がされたこと、圧倒的に人手不足だったと思いますから、一月十七日、その家族が避難したところでは食料配付はございませんでした。十八日、食料、お握り一個です。十八日、魚崎浜町のLPGの、液化ガスが漏れた、国道二号線以南は全員退去しろということで出ていったわけですよ。しょうがない、朝、もう本当、せつなかったと言っておりました。私もそれで連絡がとれなくなりました。転々としました。ほとんどが野宿を強いられたそうです。やむを得なかったと片づけていいことなのかどうか。
そして現在、十日たった今、殺到するのが、家が傾いています、隣の家に寄っかかって余震があったら第二次災害が起こります、何とかしてください、問い合わせます。市、県、職員、もう手いっぱいで何ともできません。自衛隊が入ってくれたら動かせるんですけれども、何ともできません。自衛隊も入っていると思いますが、圧倒的に数が少ない。職員も、もう本当に不眠不休で手いっぱいになっている。その辺を、本当は自治大臣に早急な応援体制に対しての御質問もしたかったのですが、ちょっとまた災害特等々の委員会でさせていただきます。
それで、一つ言いたかったのは火災についてなんですね。どんな大火災でも最初は小さな火災だったと思うのです。
ここにグラビアがございます。たまたまこれ、私の家のすぐそばなんです。この甲南本通商店街という大きな、燃えていますけれども、これは実は当日の午後、一軒の小さな靴屋さんが火事になったんです。地震直後じゃございません。ただ、ゴム関係がありますから、ぼんぼん爆発をしている。十二間道路の道を挟んでガソリンスタンドがあるものですから、私は二回一一九番かけました、早く来てくれと。最初に言われたのは、救急車、手いっぱいで来られません、何とか早く回します。なかなか来ない。もう一回かける。交通渋滞でなかなか、到着が遅くなったんです。そして、だんだん、炎々と燃えて、私もその日家を出ましたので、こういった形の大火災になったということはわからなかったわけです。
また同日、十七日、兵庫区の会下山地区と長田区のほぼ全域、JRの北側ですね、大火災があったと思います。十七日の夜、NHKで、たしかヘリコプターで撮影をされていた。私は市の対策本部で見させていただきました。炎々と燃え盛る、もうどうしようもない火災が続いておりました。
私もあの日は眠れませんでしたし、市の対策本部も全く眠れずにその消火活動を見守っていたと思います。なかなかはかどらない、水もない。そんな中で、果たして総理、十八日の、その一夜明けた、お休みになられたかどうかわかりませんけれども、十八日の朝はどういったお気持ちで、どこで何をされていたんでしょうか。(発言する者あり)建設的な話をします。
村山内閣総理大臣 十七日の日だったと思いますが、消防庁長官が現地に行っておられまして、電話で報告を受けました。そのときに私は、もう何よりもかによりも人命救助が大事だ、同時に、消火に全力を挙げてほしい、そのために責任は持つからやれることはもうすべてやり尽くしてほしい、こういうお願いも申し上げたのです。
それは、そうは言ったけれども、これは、体制として十分にはおこたえできるだけのものがなかったということについては極めて残念でなりませんけれども、私は、翌朝八時に財界の代表者とお会いをする機会がございまして、お会いをいたしました。そのときには、やはり兵庫県のこの地震の状況についても報告し合って、そして御協力もお願いしたい、こういう気持ちで行きましたので、全然関連のない会合に出たわけではないのです。これは、九時からまた閣議がありましたから、すぐ帰って閣議に出る、こういう日程でございました。
赤羽委員 今、席の方から、個人のことを聞いてどうするんだということがありましたけれども、最高責任者として、民間の連中がそういう中でどういうことをやられていたのか確認したいと思いまして、ニュースでは、おっしゃっていただいたような、財界の方と朝食会をされていた。それで、腑に落ちなかったものですから、なぜそのとき現地に飛んできていただけなかったのか、十九日になったのかということをお聞きしたいと思いまして、とりあえず聞かせていただきました。それは結構です。(発言する者あり)ちょっと静かにしてください。
また、一月十九日、亀井運輸大臣、亀井運輸大臣は空海陸の輸送体制の最高責任者でもありますし、気象庁の監督大臣でもあると了解しておりますが、私が聞いている範囲で、国会の本会議でも出ましたが、一月十九日、青森県の知事選の応援に行かれ、帰ってきてその日の夜、ある団体の新年会のパーティーに出られたと聞いておりますが、この事実関係だけ御答弁を願います。
亀井国務大臣 十八日の日に、総理の命を受けまして現地に入りまして、現地の被災状況の把握と救援体制等の把握をやって帰ってまいりましたが、翌日十九日、運輸省としての万全の、私が指示いたしましたのは、まず救援活動、これにとにかく全力を挙げるという形での指示をいたしまして、御承知のように今は携帯電話も何もございますから、それで、午前七時五十五分の飛行機で青森に参りまして、現地には十分間おりました。十分間でトンボ返りをいたしまして、こちらに午後一時に到着いたしましたが、その間も携帯電話等で常時連絡体制をとっておりましたので、運輸省の体制として、私は現地に、党人としての義務を果たすために行ったことが支障を来したというようには考えておりません。
赤羽委員 夜はどうですか。
亀井国務大臣 夜は、これは物流関係の新年の賀詞交歓会がございまして、お聞きいただければおわかりになります。私はおめでとうございますとは申し上げられませんと申し上げました。そうして…
赤羽委員 パーティーには出ていたのですね。
亀井国務大臣 いや、ちょっと待ってください。そこで私は十分間程度おりましたが、まず、物流関係の皆さん方が、御承知のように、トラックは千二百六十台、これが現地運輸局からの要請で救援物資等の輸送に当たっていただいておりますし、大変な御協力をいただいておりましたので、私は物流関係者の皆さん方に心からお礼を申し上げまして、さらに今後の協力につきましてお願いを申し上げまして、会場を去りました。
以上です。
赤羽委員 大臣、当時は、この日は気象庁がマグニチュード六程度の余震が、危険性があるという警告を毎日発していたのですよ。そして、実際起こった土砂崩れ、第二次災害上して土砂崩れ、私も走りましたよ。刻々と変化するのですよ。現地に、大阪にでも構えて大臣が陣頭指揮をとるということを私は本当に望みたかった。だから、何か現地にいないで、携帯電話持っているから……(発言する者あり)ちょっと静かにしてください。言いたいことは言いたい。本腰を入れずに片手間で、言わせてもらえば片手間で、いいこと言う政治家の言葉なんてもう聞き飽きたということなんですよ。(発言する者あり)だから、現地で頑張っただろう。五千人もの被害を出したんだよ。内閣総辞職にだって値するだろう。一時間おくれたらこれは五万、五十万の被害にも通じた大惨事だったのですよ。その認識がなくて、復興計画がああだこうだ言ったって、地元の現地民はどうやって納得するのですか。天災じゃない、人災だ。間違いなく人災だ。災害が起きてから最善の手を打つ、三時間以内に打つ、これが一番大事だったのですよ。
時間もないので続けますけれども、総理は災害発生後三日後、現地に来られ、たしか被災民の不安を取り除くよう全力を尽くすとのコメントをいただきましたけれども、今最高責任者である総理が認識されている現地被災民の、被災者の不安というのは何か、端的にお答えしてください。
村山内閣総理大臣 きのう、私は、夜、国会が終わりましてから関係省庁をちょっと激励に回りました。その際に申し上げたのですけれども、やっぱり三十万からの避難をして生活をしておる皆さんがおられる。これは千カ所以上避難場所があるわけです。ですから、物資が行き届くところもあるだろうし、また物資の行き届かないところもあるかもしれない。だから、もう生活に必要なすべてのものについては満遍なく行き渡るような配慮もしてほしいし、同時に、これから想定できないようなことが起こるかもしれない、先手先手で対策を講じて、もう何よりもやっぱり不安を解消して、あすはこうなる、あさってはこうなるというような暮らしができるような手だてというものをしっかりしてほしいということをお願いしたところでございます。
赤羽委員 具体的には、いろんな困っている問題があるのですが、住宅、十分な住宅を早急に入れていただきたいというのが今一番強い声だと思います。
小里大臣に聞きますけれども、今、あるところでは校庭にブルーシートのテントを張って生活しておる。また、あるところでは学校の庭に穴を掘ってトイレをつくっているのですよ。男女関係なくやっているのですよ。着がえもできない体育館でもう十日ですよ。一週間、十日ふろに入らないということは大変なハードシップですよ。ただし、今身寄りのある方はどんどん出してほしい、言ってください、そう言っていますけれども、身寄りがあっても、仮設住宅に申し込む資格をなくしてしまうから意地でも頑張るのだということがあるわけです。だから、今具体的に、本当に一言でお願いしますが、最善、何月何日までに何万戸用意できるのか、お答えください。
小里国務大臣 一言でとおっしゃいますけれども、時間の関係もございましょうが、極めて重要な、先生の限りなく大きな深刻な経験から御提言をいただいております。真剣に受けとめさせていただいておるところでございます。
どうかひとつ先生、今の先生のそのようなお話をぜひ具体的に、現地に、御承知のとおり、総理大臣の指示に基づきまして、あの非常対策本部も異常なまでに、異常と申し上げるのはどうかと思いますが、とにかく相当な各大臣、各省庁の応援をいただきまして、その筋のそれぞれのベテランも派遣をいたしました。しかも、貝原知事のおいでになるあの県庁のやかたの知事室の周辺に、密接な連携のもとに待機をいたしまして、対応をいたしております。
どうかひとつ、先生のそのような貴重な経験に基づきまして、いろいろ今総理大臣が指示しなければならぬことを、あるいは私が対策本部長として知恵を絞らなければならぬことをぜひお聞かせをいただきたいと思う次第です。当然私どもは、私どもといたしましてもう可能な限り精いっぱいの対策を講じておりますから、どうかひとつよろしくお願い申し上げます。
なおまた、住宅の問題についてお話してございますが、先ほどからお話し申し上げておりまするように、それぞれ対策も可能な限り進めております。しかしながら、これは決して言いわけではございませんけれども、その建設計画を立てましても、建築資材等を運び込むことが大変だ、この事情もまた先生御承知でございますから、そのような困難を乗り越えましてやりますから、よろしくひとつお願い申し上げます。
赤羽委員 住宅は恐らく推定七万世帯分ぐらいを早急に用意しなければいけないというふうに現地からの報告では上がってきています。七万戸。今つくっているのはせいぜい一万とか二万とか、そういう仮設住宅。それも入るのが二月中旬だと、ガスは三月になると、それまでふろにも入れないのかと、そういう話になるわけです。
ですから、緊急の提案として、近隣諸県の公営住宅、それと企業の社宅、それとホテル、旅館、すべてを即刻借り上げて、そしてその移動費用もすべてこちらが持つ、国が持つ。そして、移動したとしても、その公設仮設住宅の申し込みの権利は喪失しないということを担保してあげて、きょうにでも手を打ってください。
また同時に、ふろの話が出ました。現在、北区でゴルフ場を開放しているところがあって非常にありがたがられているのですが、なかなか遠くて行けないのです。さっき灘区とか市内にも幾つか銭湯があいていると言いましたが、皆さん知っていますか、一人十五分で、六時間待つのですよ。そんなところに、当てもないところに行けるわけないじゃないですか、神戸といったって全く陸の孤島になっているんだから。ですから、県内に百三十五のゴルフ場、市内北区、西区に恐らく十個のゴルフ場、これもすぐできるはずです。足を確保してふろに入れてあげる。女性は全く着がえられない。もう本当にこれは限界に来ていると思います。そこについて、答弁はもういいです。(発言する者あり)じゃ……。
佐藤委員長 野中自治大臣。簡単にお願いをいたします。
野中国務大臣 今お説のとおり、昨日午後三時に近畿の知事、政令指定都市、中国並びに四国の知事さん十六名、指定都市の市長さん三名、合わせて十九名にお集まりを賜りまして、そして近隣府県で受け入れていただくということをお願いをいたしました。
本日午後二時に電話も十台、知事公舎の庭にテント張りで、近畿ブロック、中国ブロック、四国ブロックの連絡事務所を設けまして、神戸市内には五つの連絡事務所を設けまして、その収容できる住宅あるいは施設を全部避難地に掲示しまして、そしてそこへ電話をかけていただきます。そして、その費用は全部各都道府県や市町村で負担をしていただき、自治省はそれを特別交付税で見るということをお約束をして、既に活動に入っております。
どうぞ先生も、あるいはこのテレビを通じてお聞きの背さん方も、何なら私、電話番号、十本ありますから、お許しをいただいて言いたいのですが、そこへ連絡をいただきたいと思っております。
赤羽委員 ですから、もう一度確認します。ゴルフ場のふろの話はだれもしないと思います。現地でしか声が上がらない。とにかく足を確保して、今晩からもう至急してください。
あと、ちょっと箇条書きにだけ言わせてください。
当面の生活資金の手当てを拡充すること。そして解体作業。これはもう話が出ています。費用はこれは国が持つこと。ローンをつくってマンションを買った、家はなくなったけれどもローンだけ残っている、これも深刻な問題です。あと、地場産業が崩壊しているわけです。神戸港の港湾、ケミカルシューズ、この地場産業の崩壊による職場喪失に対して雇用を確保していただきたい。また、被災者復興の特別融資、低利などと言わずに無利子でお願いします。その中で、神戸というのは国際都市です。在日韓国、朝鮮、華僑の方も多くて……
佐藤委員長 赤羽君、申しわけございませんが、時間が迫っておりますのでそこでやめてください、あとの方の質問の時間もございますので。(赤羽委員「一言だけお願いします」と呼ぶ)もう一言が大分過ぎましたので、まことに恐縮ですが、大変重要なことだと思いますが、委員会の運営がございますので、ひとつよろしくお願いいたします。
赤羽委員 はい、わかりました。私も神戸選出衆議院議員として、これから兵庫県の復興が本当に自分に与えていただいた最大の使命だと思って頑張るということを決意表明しまして、三十分の質問時間、終了させていただきます。ありがとうございました。